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櫂ミサ/ 梅雨

pixiv転載

 朝の天気予報では、確かに夕方から雨が降ると言っていた。そう。確かに言っていたし、家を出る時には危ないかなとも思ったのに、どうして傘を忘れてしまったんだろう。
 学校を出る時も、曇り空をみて降りそうだとは思った。
 けれどバイトまで時間がなかったのだ。今日は叔父で店長でもあるシンが用事で出ており、店の鍵を開けるよう頼まれていた。雨の中、お客さん達を待たせるわけにはいかないのに、授業が遅れてしまって時間がない。
  だから多少の雨なら平気だろうと決めつけ、傘も持たずに学校を出てしまったが、それが失敗だった。ミサキの予想は大きく外れ、校門を出ればすぐに雨が降っ てきた。小雨だったそれは時間と共に勢いを増し、気が付くと下着までぐっしょりと濡れている。仕方なくシャッターの閉まった煙草屋の前で足を止めてしま い、こうして止まない雨を眺めながらたった一人茫然と立ち竦んでいた。
 雨が、止む気配はない。
 通る人は皆、傘をさして土砂降りの中を足早に歩いていく。その姿をぼうっと眺めながら、ミサキは小さくため息をついた。
 スカートの裾から水がぽたりと落ちていく。
 この様子では、おそらく鞄の中も濡れてしまっているだろう。一応携帯はハンカチで包んだが、この濡れ方ではあまり意味を成していないかもしれない。壊れてなければいい、買い治すのは面倒だ。もし壊れていたら、シンさんに買ってもらおう。
「……ばかみたい」
 今日は新パックの発売日だ。雨だけれど、きっといつもよりお客さんが来るだろう。アイチも森川も、発売前から楽しみしていたから学校と同時に走ってくるんじゃないだろうか。そう思うと猶更、こんな所でいつまでも止む様子のない雨を待っているわけにもいかなかった。
 もう一度雨の中に繰り出そうと、足を出した時。
 歩道を歩いていた人の中に、見知った顔を見つけて思わず声を出していた。
「あ」
 ミサキの声に、歩いていた高校生が歩みを止めてちらりと顔をあげる。
「……戸倉」
 黒い傘を持っていた彼は、バイト先の常連で同じファイトチームの櫂トシキだった。
 寡黙な人だし、ミサキも自ら進んで会話するような人柄ではないから、特別親しいわけでも、全くの他人でもない程度の知人だった。いつもは後ろに付き従っている金髪の友人が、櫂の分まで饒舌に話しているはずだが、今日は三和の姿はない。一人きりだ。
「何してる」
 訝しげな声音で、櫂がぼそりと呟いた。
 たしかに、こんな所で濡れたまま突っ立ってるのは傍からみれば滑稽だろう。ミサキはため息交じりに答えた。
「……傘、持ってなくて」
 櫂がミサキの前に立つ。
 黒い大きな傘を上げると、櫂は苦い表情をして顔を背けた。
「なに?」
「前、閉じろ」
 前、という意味が解らなくて、まじまじと自分の恰好を見てミサキは絶句した。濡れてしまったせいで、シャツから下着が透けている。
「……っ!」
 慌ててジャケットの前を寄せて合わせた。
 櫂は苦々しく顔を背けているだけで、特に何も言わなかった。せめて茶化してくれれば怒りようもあったのに、これでは誤魔化すこともできない。
 ミサキは赤くなった顔を隠しながら、努めて冷静に声を掛けた。
「店、行っても開いてないよ」
「なに?」
 この通りに居るのだから、おそらく彼の目的はカードキャピタルだろうと当たりをつければ、予想の通り櫂は反応してきた。新パック、余程欲しいんだろう。こういう所は、櫂もアイチも、近所の小学生と何等変わりなかった。
「今日はシンさんいないから。店の鍵はあたしが持ってるし」
 だから、早くいかないと。このまま雨の中へ繰り出そうとすると、櫂が傘を差し出してきた。
 驚いて、まじまじと櫂を見上げる。
「……行くぞ」
「え?」
「行先、同じだろ」
 差し出された傘に入れというのか。
 ぶっきら棒に言い切られると、ミサキにはどうしようもない。むしろ、それが最善なような気もするし、こうしている間にも時間は過ぎていくし、雨は止みそうにない。
「……じゃあ、お願いします」
 おずおずと申し出て、その隣に並んだ。


 店に着くまで、ほとんど口を利かなかった。というか、「ほとんど」どころか「全く、一言も」口を利かなかった。歩いている時、ほとんど雨の音とか、通りすがる車のエンジンだとかをぼうっと聞き流していた。
 きっと、世間のいう相合傘というものよりも、ずっと事務的だ。利害の一致、と呼んだほうがしっくりくる。
 彼とは、無理して話そうとしなくても良い。沈黙が苦痛ではなかった。気遣わなくてもいい、ミサキにとっては気楽な相手である。
 返事が返って来なくとも不思議と気にならないし、無視されているとも感じない。
 鍵を出して、店のドアを開ける。
 電気をつけると、ミサキは裏の居住区に入る。タオルで適当に髪を押さえ、部屋着用に置いてあったシャツとジーンズに着替える。タオルをかぶったままカウンターに戻ってくると、櫂はいつもの隅の席に背を向けて座っていた。
 その左肩が、はっきりと濡れていた。薄水色のジャケットが、左肩口だけ濡れて紺色になっている。
 ミサキは櫂の右を歩いていたし、傘に入れてもらってから全く雨に晒されていない。
 ――まさか、寄せてくれていたんだろうか。
「……」
 むず痒さで、ミサキは俯いた。
 こんな事をする人だったろうか。
 大きな傘だったから、一人なら濡れなかっただろう。なんとなく、ああ男の子だなあと他人事のように思った。
 裏に戻って、タオルを用意する。なるべく綺麗そうなものを選ぶと、店舗に戻って櫂の隣へ近づいた。
「使って」
 差し出すと、ちらりと横目で一瞥されただけで、すぐに顔を逸らされてしまった。
「必要ない」
 一蹴されたけれど、不思議と嫌悪感は湧かなかった。
 問答を言わさず、後ろから肩にかけてやった。茶色がかった髪がしっとりとしていて、やっぱり濡れていた。
「ありがとう」
 櫂は何も言わなかった。
 しかし、返事が返って来なくとも不思議と気にならないし、無視されているとも感じない。
 いつものエプロンをつけて、看板をオープンに裏返す。
 外はまだ、雨が降っていた。
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